石岡青年会議所(JC) ありがとう (卒業にあたって)

2014年8月16日

 36歳からお世話になった青年会議所(JC)の卒業式が去る07年12月08日(土)行われ、無事に青年会議所(JC)を卒業させていただいた。

 学生時代もサラリーマン時代もそうだったんだけど、問題児として様々な事件を起こしながらも、なんとか卒業できた。

 さて、卒業にあたり青年会議所(JC)の思い出を簡単に総括しておこう。

石岡青年会議所での大雑把な歩み

 自分が青年会議所(JC)に入会したのは2003年09月理事会承認の、翌10月入会のセレモニーだった。

 親は、今年度(社)石岡青年会議所・第33代理事長を務められた小松崎将人君だ。

 大学時代の友人、木村一祐君に紹介を受けて、入会に至ったものだ。

 いや~、入会以来非常に忙しい日々を過ごさせていただいた。仕事にも大いに支障が出てしまったものだ。

 当初、なんで仕事でも無いことをこんなに一生懸命にやらなければならないのか、さっぱり理解に苦しんだものだ。

 とりあえず経歴を振り返ると

  • 03年 10月入会  拡大委員会  ・・・あまり出席していない。
  • 04年 30周年記念委員会     ・・・あ~ 忙しかった。
  • 05年 まちづくり委員会・副委員長・・・これもまた忙しかった。
  • 06年 拡大広報研修委員会・委員長・・・さすが委員長、忙しかった。
  • 07年 副理事長         ・・・目まぐるしかった。

 このような経過を踏み、様々な体験をさせていただいた。

 以下、各年度をそれぞれに振り返っておこう。

04年  30周年記念委員会時代(37才)

 30周年記念式典が4月にあり、あと30周年記念イベントが11月と、年中通して大変だった。

 年頭は茨城県内の各青年会議所(JC)の総会にPRで歩き、ほとほと時間に追われた記憶がある。

 また式典やイベントの前1ヶ月くらいは、やはりほとんど休まずに活動していた。

 つらい日々だった・・・

05年  まちづくり委員会・副委員長時代(38才)

 初めての理事を仰せつかったわけだが、3月に「百里シンポジウム」の主管として設営に当たることとなった。

 周辺のまちづくり団体やスポーツ団体と共同して「スカイスポーツを活用したまちづくり」について、スカイスポーツ・イベントとシンポジウムの準備・運営を行った。

 この時に作成した資料が、間違いなく量も質も一番だったと思う。

 まぁほとんど自分が作ったわけだけど、なんと80ファイルを超えていた。

 どんな資料だったか見たいJCマンは、お申し付けいただければ提供しようと思う。

 この時には、まちについての理解がとても深まった時期だった。

06年  拡大広報研修委員会・委員長時代(39才)

 「理性ある狂気で駆け抜けて、10名の増員をしよう!」と念じて出発した。

 結果は、6名の入会で終わってしまった。

 所属メンバーを、時の中泉理事長に申し出て、自分と副委員長の3人体制にしてもらい、メンバーは自分で増やす! とうそぶいていた。

 しかし忘れもしない05年の11月3日に、非常に期待していた副委員長が、仕事途中の不慮の事故で帰らぬ人となってしまった。

 理事長は、副委員長補充を提案してくれたが、自分はその副委員長を、「心の副委員長」として年間頑張ろうとと誓ったので、副委員長1人の2人委員会からスタートした。

 人数が少なかったので、非常につらい年だったが、おかげさまで非常に良い新入会員と出会うことができた。

 生保営業所長をしていた時も痛感したが、人との出会いが結局は自分を助けてくれるということだ。

 心の副委員長のことは今でも思い出す。

 自分が一流になれなっかたら、彼に対する供養ができていなかったことになるので、今後も、男涙を汗に変え、炎のように燃えて頑張りたい。

 様々なことがあった一年だった。

07年  副理事長時代

 まぁ青年会議所(JC)が一番よく理解できた年だった。

 しかし卒業に当たっては、本当に様々な気付きをいただいた。

 自分が能力にまかせて奢っていたこと、感謝の念が足りなかったこと、無私ができていないことなどなど・・

 結局生命保険の所長をしていたときと同じ反省が出てきてしまった。

 人間て、なかなか成長できない、前に進めないのだなぁと思った。

 スキルはアップしても、魂レベルでの向上は、本当に留意しないとダメなんだと思った。

 自分は4年ちょっとの在籍で3年理事を務めさせていただいたが、良く発言すると言われた。

 しかし自分は生保所長を27才で拝命したときには、非常に良く発言し、29才頃には論客と言われていた。

 もっともっと議論がしたかった気もしている。

副理事長としての最終報告文

 さて、そろそろまとめるのに、総会の資料として出すものを、公開されるものなので、そのまま貼っておこう。

副理事長としての最終報告文(原文通り)

 2007年度未来開発室は、理事長所信に則り活動いたしました。

 一年を通じて公共心と道徳心の育成を念頭に、地域の未来を担うための青少年育成を探求してまいりました。

 青少年委員会では12回を数えた少年サッカー大会において、LOMメンバー、父兄、サッカー関係者が同じ理念を共有し、子どもたちの健全育成を目的に事業を開催いたしました。

 また11月には国の行事である「ねんりんピック」とのコラボレーションにより、前年度からの引継ぎとなる「2007年度ティーンズプロジェクト」を高校生とシニアの方々を対象に開催いたしました。

 2月に実施した法務省水戸保護観察所更生保護振興課 課長 荒 慶一氏の講師例会で考察した“少年を取り巻く社会環境の現実”からの気付きに対して、両事業が実践的な行動の場として機能できたものと考えます。

 未来を担う青少年が、自らの地域に誇りと愛着を持つことができる社会を目指して行動してまいりましたが、大きな夢と高い志が未来図として描けたかどうか、時間を経ての検証が必要であると思っております。

 最後に昼夜を問わず頑張ってくれた未来開発室のメンバー、並びに協力いただいたLOMメンバー、そしてこのような体験の場を提供していただいた理事長に衷心より感謝申し上げ、未来開発室の活動報告とさせていただきます。

青年会議所(JC)活動を振り返った一文

 そして最後に、青年会議所(JC)活動を振り返った一文を掲載して終わりにしよう。

JC活動を振り返って

 2003年にJCに入会させていただき4年と3ヶ月の期間お世話になった。

 非常に慌ただしくも、振り返ると沢山のものをいただいた。

 JCは本当に良かった。

 福島県磐城高校で甲子園球児であった自分は、野球が終わった後に虚無感に襲われ偏差値が38まで落ちたが、4ヶ月で66まで盛り返し奇跡と言われ故郷を離れた。

 それから同じ地域に最高4年までしか住んだことが無かった。

 石岡も最初はいつまで住むことやらと思っていたが、JC活動のおかげでこの地域が好きになった。

 石岡には縁もゆかりもない自分であったが、沢山の縁を導いていただき本当に感謝している。ありがとう。

自分の心を支える「六中観」と「六然」

 最後に自分の心を支える「六中観」と「六然」を披露してお別れしよう。

「六中観」
死中活あり、苦中楽あり、忙中閑あり、壺中天あり、意中人あり、腹中書あり

「六然」
自処超然、他人接藹然、無事澄然、有事斬然、得意淡然、失意泰然

青年会議所(JC)よ、ありがとう。
縁のあったメンバーたちよ、ありがとう。