大川師匠逝去に想う「陽は昇り黙っていても朝は来る」

2020年6月1日

大川師匠逝去に想う「陽は昇り黙っていても朝は来る」

大川さんとの思い出と学ばせていただいた数々

 去る令和2年5月16日(土)三井生命時代に師匠と崇めていた大川さんが急逝された。
 第一報を翌日の17日の日曜日に受けて、一瞬固まってしまった。その日曜日はずっと仕事が入っており、大川さんの50年来の友人であるA氏から電話をいただいたのだが、来客対応中につき折り返すこととした。そしたらライングループで急逝の報が回っており、固まってしまった。
 享年71歳、満で70歳、いまのご時世では早いだろう。動脈瘤破裂ということだった。文字通り、太く短い人生を駆け抜けた先輩だったように思う。

 コロナ禍で騒がれているご時世なので、コロナかとも一瞬過ぎったが、全く違う原因だった。
 時節柄、家族葬ということだったが、5月19日(火)お通夜に参列させていただいた。

 大川さんには様々教えていただき感謝に堪えず、ご供養の意味も込めて、大川さんとの思い出と学ばせていただいた数々を残しておく。

最初の出会い

 平成5年3月末、社会人最初の赴任地である秋田から土浦に転勤となり、25歳で土浦支社に赴いた。大川さんも同時に転勤で来られていた。齢42歳。
 第一声から変だった。

 「お前はアキカンだな。秋田から来た菅野、略してアキカンだ。」
 「はあ、あまりいい感じでは無いんですけど…」
 「ちょうどいいよ、お前」
 「なんか空っぽみたいな響きがどうも…」
 「空き缶は蹴ると良い音するぞ」
 (なんで俺が空っぽ空き缶なんだ…)

 というやり取りから始まったのをよく覚えている。そして問われた。

 「目をつぶると何が見えるかね?」
 「(何も見えないので)暗闇ですか?」
 「コバルトブルーが見えないのか?」
 「コバルトブルーですか…??」
 「そうだ」

 なんとも不思議な出会いだった。大川さんは猛烈なエネルギーを発しており、フランス文学青年を自称するだけあって語彙が豊富でユニークだった。
 そこから営業畑を歩むことになった自分にとって珠玉の言葉の数々を与えてくださった。
 代表的な言葉を挙げておこう。

ラポール(心の扉)

 ラポールはフランス語で門・扉を指すらしい。自分で調べていないのだが、氏の言葉をそのままお借りしよう。
 扉は心の扉を指し、心の扉を開いていただけないと次に進めない。よって「開け心の門」ということを象徴的に指していた。
 営業に携わった方ならピンと来るだろう。初めに警戒心を解いたり、信頼関係構築がどれだけエネルギーがいるか。

 この信頼関係構築のスタートを「ラポール」という言葉で表現していた。忘れがたい言葉である。

 あの当時の土浦支社はトップの支社長を中心に個性的な上司が多かった。
 大川さんと双璧だったのが、T法人課長だ。あの方にも営業のこころやスキルは様々教わり、とても凄い一面をもった上司だったが、なんとも不思議な人だった。スタンダールの「赤と黒」を「赤と白」とずっと夢中で言い続けていたり、不思議な店に入り浸っていたり、そうかと思うと都銀の支店長とモーニングを食しながら打合せをしていたりと捉えどころが無かった。
 大川さんとT氏のような猛獣を抱え、支社長も気の毒にと思う節もあったのだが、実は支社長が一番強烈で頑固だった気がする。見た目はそうでなかったが。

 副所長的立場だった自分は当時の土浦支社で3人の所長に仕え学ばせていただいたが、いずれも逸材で偉くなった方たちが多かった。
 とにかく百花繚乱の様相の組織だった。いろいろと教わり、秋田時代にこんな阿呆な会社辞めたると言っていたのをすっかり忘れさせてくれた。

発された印象深い言葉

 その他、大川さんが発した不思議な印象深い言葉を重ねたい。

  • 理性ある狂気をもって驀進しろ!
  • 人生は「思い出作り」
  • リーダーは一番つらくなくてはダメなんだ!
  • リーダーの仕事は部下の能力を0.1mmでも毎日伸ばしきること
  • 南に行きたいなら、北をそのままとことん進めば回って南になる
  • 神々は曲線でもって直線を引く ~ 回り道が近道
  • 栴檀の香風 衆の心を悦可す
  • 人は木の股から生まれてくるのではない、縁こそが大切
  • 縁ある人とは家族のように深く付き合う
  • 紹介者とは魂の友人である
  • 営業の極意は大衆運動を巻き起こすことである
  • 陽は昇る 黙っていても朝は来る 朝日が昇る前の朝が一番寒い
  • (2020年6月1日・自分のもう一人の師・玉川さんから指摘で追加)
  • 一匹の羊のボスに引き連れられた百匹の狼の群れより、一匹の狼のボスに引き連れられた百匹の羊の群れのほうが強い
  • 不条理の倫理

釣りは遊びじゃないんだ事件

 正確な時期を忘れてしまったが、恐らく土浦の1年目だったと記憶している。これは強烈な事件だった。
 釣りきちがいだった大川さんに海釣りに誘われ、朝4時に大川さん宅集結の約束をした。自分と大川さんの二人だけの約束だった。

 ところが前の晩に、東京から旧知が出てきて乱痴気騒ぎで2時近くまで飲んでしまった自分は、4時には到底間に合わない寝坊をしてしまい、5時過ぎに血の気が引くのを覚え、飛び起きて大川さん宅に向かった。

 そして謝罪と共に飛び込んだ瞬間に出てきた言葉が「釣りは遊びじゃ無いんだ!!」という大喝だった。

 尋常ならざる気配に自分も悟った。これは殴られ蹴られ、とにかく気の済むまでやられないと収拾しないと。そしてドアを怒って閉めるところに自分の足を挟んで閉まらないようにして、とにかく謝罪を続けた。
 「帰れ」「いえ謝罪します」というやりとりが何度も続いた後に、家に上げてもらえたのだった。

 そして殴られる覚悟をしていたが、激しく罵られ、そして疲れてからは諄々と説かれた。何を言われたのかは、もはや覚えていない。
 大川さんの偉いところは、前向きのプラス思考である。ついに、「今日は釣りに行ったらひょっとして遭難していたのかも知れない。お前のお蔭で救われたのかも知れん」となったのだった。
 不思議なもので、そこまでのシーンは鮮烈に覚えているのだが、なぜかその日のその先、8時以降は全く思い出せない。

 翌日会社で、すでに「上司の約束を遅刻するなんて」という声を聞き、辟易し通しだったのは覚えている。とにかくあれは強烈な出来事だった。

 しかし自分には一つ疑問が残ったのだが、怖くて聞けず終いだった。
 「仕事でも遊びでもない釣りは、いったいどのような存在だったのか」ということである。もし聞いたが最後、また逆鱗に触れると感じていた自分はとても言い出せなかった。まあ良いことにしよう。

部下を呼び出してのどんちゃん騒ぎに敗北

 自分が31歳・平成11年の頃だったと思う。若き営業所長として宇都宮で4年目を迎えていた頃だったが、どん底から3年目でようやく業績は上向き、4年目は打つ手がはまり、帝国でも築けるのではないかと内心思っていた頃、大川さんが埼玉県川口で営業所長に返り咲いていた。
 とある日の夕刻に電話がかかってきて、たまに一緒に飲もうという誘いを受け、川口に電車で向かったのだった。

 久々の再会からかなり酩酊し、勢いで何か口論になったのだった。
 言い争いの中でのやり取りは次のような感じだった。

 「言ってる意味が分かりません」
 「お前はバカだから分からんのだ」
 「バカとは何ですか」

 となったところでいきなり殴られたのだった。それで自分も向かっていき、取っ組み合いになったところで、強烈な一撃がやってきた。なんと頬っぺたを噛みつかれたのだった。噛みつかれたのは後にも先にも、あの時だけだが、一気に戦意が喪失し、へなへなとなってしまったのを覚えている。
 噛みつかれた歯形の跡が残り、見られたものではなかったが、人生でたった一度の不思議な出来事だった。

 その後、21時過ぎに「お前、今から部下を呼べるだけ呼べ」と言われ、
 (こんな時間に宇都宮から呼び出せるかよ)と思っていたら、「お前のために今を投げうって出てくる部下がいないんだよ、お前は見下げた男だ」と言われ、「俺が今から部下を呼び出す」となり、なんと4人も集めてどんちゃん騒ぎとなったのだった。

 このシーンで自分は、この人には本当に敵わないと心から感じたものだった。人生で何人か、本当に敵わないと感じる人と出会ったが、大川さんはこの一事で自分に敗北感を与えてくれた方だった。今でもできないなと考え込んでしまう。

酔っ払い飛び降り転倒 肋骨ヒビ事件

 大川さんと一緒の酔っぱらいの失敗は数えきれない気がするが、会社を辞めた後に、大川さん宅の近くでベロベロになってしまい、調子に乗って大川さんと肩を組みながら歩いて、1.5mくらいの段差から、「大川さん、ここを飛び降りていきましょう」と、共に飛び降りたはよかったが、大川さんが転倒してしまい、肋骨にヒビが入るということもあった。
 あの時は「うー…」と呻きが漏れ、その姿に酔いがサーっと覚めて、やばい、と感じたことだった。

 とにかくこんな思い出が多い先輩だった。

 奇しくも10年前の2010年5月16日(日)に大川さんは倒れ、その後10年を経て、天に舞い戻ったのだった。そのへんのくだりは以下のリンクを参照されたい。

神々は曲線でもって直線を引く(回り道が近道)

陽は昇る 黙っていても朝は来る 朝日が昇る前の朝が一番寒い

 大川さんは好んで「陽は昇る」を歌っていた。そして常々言っていた気がする。陽は昇る、黙っていても朝は来る、朝日が昇る前の朝が一番寒い、と。

 自分は誰の歌かも知らずに聞いていたが、師匠の生き様はこれなんだなと感じること多々だった。
 夜明け前の朝が一番寒いことはよく知られている。そこから太陽が昇ってきて大地を温め、我らもその恩恵にあずかるわけだが、その寒さと対峙しないといけないということを学ばせていただいた。

 倒れた後も戦い続け、俳句に力を注いでいたのだったが、俳句合戦をできなかったことが、とても悔やまれる。

若者への慈しみに溢れていた

 自分も含め、年下をずいぶんと可愛がる性分でもあった。君たち若者が次の世を担うんだ・・・と、いつも仰っていた。
 もはや自分も若くは無いのだが、当時世話になった部下たちはきっと皆言われていたことだろう。若者が次の世を担い、そして築き上げていくと。
 本当にそうなんだよなと最近はとみに感じる。

 今の時代、このような暑苦しい関係を面倒だと厭う若者も多くなったように感じる。しかし本気の本音でぶつかれる関係は素敵なところがある。
 確かに疲れることは疲れるのだ。しかし、しかし、本気でぶつからなかったら、きっと本物に成長しないのではなかろうか。
 教えるほうも教わるほうも真剣であるということを、肌身で感じることのできた間柄だった。

 若人よ、暑苦しさを面倒がらず厭わず、真剣に生きてみようではないか。

骨の拾い忘れは無いかの畏れ

 司馬遼太郎先生著の「峠」がある。幕末の越後の麒麟児と称された河井継之助を追った作品だが、「峠」のあとがきに河井継之助が亡くなった後、従僕の松蔵が骨拾いをする場面が描かれているシーンが印象的である。

 「峠」は10回ではきかないくらい読んだ書籍だが、あとがきの最後の部分を紹介しよう。

 継之助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。

 かれは死に、その死体は、かれの下僕松蔵の手で焼かれた。その遺体を焼いているときはすでに津川口が敗れ、官軍が接近しているときであり、見まもるひとびとは気が気ではなかったが、松蔵は灰のなかからたんねんに骨をひろいあげた。
 松蔵はそのとき泣きながらいった。[あのような旦那さまでございますもの。もし骨のひろい方が足りないで、これ松蔵や、貴様のそこつのためにおれの骨が一本足りぬ、などとあの世に行ってから叱られては松蔵は立つ瀬がございませぬ」といったという。

 書き終えて、筆者もまた松蔵の怖れを自分の怖れとして多少感じている。いくらかの骨を灰の中にわすれてきてしまっているかもしれないのである。

 実は自分も司馬先生と同様の畏怖を覚えているのである。
 大川教と称され、交わった人達に多大なる影響を与えた大川さんだったが、その教えを拾い切れていないのではないかという感覚である。
 あの当時、大川さんと触れ合った仲間たちも齢を重ね、それなりの立場になっている。もし当記事を読むことがあり、ここが抜けているということがあったらご指摘を賜りたい。

 最後に、大川師匠の生前の邂逅そしてご厚誼に深く感謝を申し上げ、心からのご冥福をお祈りする。あちら側でも存分に暴れて欲しいと願う。