磐城高校野球部の偉大なる先輩・福田昌久先輩に学ぶ

 自分の母校である、磐城高校野球部の先輩に、福田昌久大先輩がいらっしゃる。

 もう存命では無いが、プロ野球界で29年間生きられ、巨人などのコーチを歴任された、偉大なる先輩だ。

 自分たちが高校を卒業するにあたり手記をお寄せ下さり、最近になって何となく読み返したところ、久々に魂に楔を打ち込まれた衝撃を受けたので、ご披露させていただこうと考えた次第である。

 あまりにありがたい手記なので、原文のまま、載せさせていただく。
 自分も苦しいときに、いつも肝に銘じようと思う。

福田昌久大先輩の手記原文

わがスポーツ人生に思う

福田昌久

 皆さん今日は。

 元来、私は野球が商売、野球屋でございますので、あまりしゃべるのを得意としませんが、過去プロ野球の世界に29年間生きて参りまして得た、いろんな経験、体験の一つ一つが皆様方の環境の万分の一でも役に立っていただいたらと考えております。
 どうか、気楽にお付き合いの程お願い致します。

 初めに、今年(1985年・38回)の甲子園出場おめでとうございました。

 私も32年ぶりで母校の応援に行かしていただきましたが、皆さんの熱意溢れる応援のすばらしい熱気、真剣そのもののあの顔、本当にあの声援、あの真心をもって皆さんがこの学び舎に学んでいるということは、磐城高校の大きな誇りであろうと思います。

 今、いろんな所から、「どうして29年間プロ野球におり、19年間コーチをやってこれたんですか?」 と質問を受けます。

 私は、皆さんもご存知のように、ホームラン王になった経験もありません。三割を打った経験も、20勝した経験もありません。

 その私が、コーチとして、指導者として、ジャイアンツを皮切りに19年間やって来れた。
 私は今でも自分が不思議だなあと思う位です。

 話はとびますけれども、私が南海ホークスにいる時に、練習開始4時。
 私が4時5分前にグランドへ入ると、鶴岡監督がベンチで座っている。

 「お早うございます」と言って、そっと外野の方へ走りに行こうと思った。

 鶴岡監督が「おい福、今日は帰っていいぞ。」・・・

 分からない。なんで帰っていいぞと言われたか分からない。

 私は黙ってそこへ立っとった。

 「お前みたいな下手くそが今頃出て来ておまえ… 銭落ちとるか? 今日は練習何時や?」

 「練習四時です。」

 「今何時や?」

 「5分前です」。

 「もうグランドには銭落ちとらんから帰れ。みんな拾った後や。お前らの銭は、グランドしか落ちとらん。お前みたいな下手くそが5分前に出てきて銭拾おうと思っても、一銭だってもう落ちとらん。今日は帰れ。」

 私は返事ができない…。

 やった結果は何だった。

 そこへ正座した。

 グラウンドに。ユニフォームのまま正座して…。

 まあ今考えてみますと、本当に、その、帽子が飛んだぐらいですから、地面に僕は、その、額をうちつけたと思うんです。

 「やらして下さい。お願いします。二度と時間に遅れません。」……

 遅れた訳じゃないんですけれども、ま、それからの私の「時間」というものに対する考え方が変わりました。非常に。

 いろんな面で。鶴岡さんを思い出す度に……。
 えらいプラスになっております。

 話はまた変わって、王選手の当時のスイング。

 これは、いろいろ皆さんもマスコミの中で聞いて、知ってらっしゃると思いますけれども、過去私がいろんな選手とつきあって来ましたが、王選手ほどバットを振った選手は見当たりません。
 まず見当たらない。

 その王選手が、昭和38年に私が南海ホークスからジャイアンツにトレードされて入った時のちょっと前、37年の7月31日に一本足になった。

 そして38年から本格的に始まった。

 私もいっしょに弟子入りをさせてもらって荒川道場に通った。

 その時に荒川さんが、コーチでーバッティングコーチで、「王、ベーブルースの記録を抜け。」……

 片っぽは700以上のホームランを打ってるんです。

 王選手はまだ100いってなかった。

 「抜けませんよ。無理です。」

 「それならやめろ。抜けない。抜く自信がないなら一本足やめろ。」……

 わたしはそこにいました。

 ま、王選手は気をとり直して、「抜きます。大丈夫です。」

 しかし本心から抜きますといったんじゃなかろうと思います。

 私もその時に、「無茶なこと言うなあ。コーチはえらいこと言うなあ。」と荒川さんを思とった。

 しかし、ふり返ってみたら、べーブルースの記録はおろか、ヘンリーアーロンの記録まで抜きさって、誰もが届かない八六八本まで行ってしまった。

 これはコーチが偉いんじゃないんです。
 やった王選手が偉いんです。

 もちろん、みんなで王選手に対して、素晴らしい、先輩としての愛情を注いだ名監督、コーチ、おります。

 しかし、やったのは王選手です。

 これは、もう皆さんがご存じでしょうけども、人間には、たった二つ、平等に与えられている物があります。

 おぎゃーと生まれて、赤子でも、大人でも、経済の豊かな人でも、男女問わず、たった二つだけ平等に与えられている。

それは、プライドというもの。
もう一つは、二十四時間という時間です。

 これは誰にでも与えられてる。

 しかし、その二十四時間を、自分のために、真剣に使った人が必ず勝利者になる。

 これだけは間違いないと思います。

 我々は、いかに無駄な時間が多いかということを反省してみた場合に、もったいない、毎日毎日の人生の中で、本当に有意義に、本当に必死になって取りくんだら、自分というものがどのぐらい素晴らしい者であるかというこを、もう一度自分に自信をもって下さい。

 我々野球は (ここには野球部の方々が何人かいらっしゃるでしょうけども) 野球はやらされるものではないんです。
 やるもんなんだ。

 と同時に、ミスの連続、そのミスをいかに、助けあうかということが、野球の一番大事な所です。

 例えば、サードゴロをとったサードがファーストに放ってワンバウンド。これはスローイングミスです。

 しかし、ファーストが身を挺してそれを取ってアウトにしたら、これはミスにならない。

 キャッチャーがあわてて放ったセカンド、ワンバンになった。ショートがそれをとってタッチアウトにしたらミスにならない。

 お互いに、そのミスをフォローしあう。かばいあう。助けあうというのが、野球の素晴らしさなんです。

 私がプロ野球29年の中で、最も厳しかったこと。

 これは私がジャイアンツの選手の時に、川上監督からピンチヒッターを言われた。

 「おい、福田ピンチヒッター」

 私は喜んでバッターボックスに入ろうとしたら、

 「おいおい、ちょっと待て。」…

 これは、次はどうしたらカーブが打てるか、どうしたらこの球を打てるかアドバイスをしてもらえると思いますよ。…

 私は喜んで、「何ですか。」…

 「この打席で打てなかったら明日やめてくれ。」…

 シーズン中ですよ。返事できますか、皆さん。

 返事ができない。「はいっ」つって打てなきゃ明日やめなきゃなんないんですから、返事ができない。

 私は黙ってバッターボックスいって何て言ったか。

 今、大洋にいるヘッドコーチをしておる土井君、彼が大洋のキャッチャーやった。

 バッタレボックスへポッと入って、「おい頼むわ。シュート放ってくれ。このピッチャー打てへん。俺当たるしかないからシュート放ってくれ。」

 土井君が「あんたおかしいんちゃうか」

 私に言うわけです。

「俺はまじめや。俺逃げへん。それしか方法ない。」
 打てなかったら明日やめないかんのですから。

 最後に、「一生懸命」、この言葉に対してもう一度いろんな面で反省してみて下さい。

 この一生懸命に勝る言葉はありません。

 どうかこれから皆さんのありったけの若さと明るさをいろんな面に発揮して、素晴しい学生生活、社会生活を送られるようがんばって下さい。

(福田昌久大先輩 磐高5回卒 元巨人、ロッテ等コーチ、中日ヘッドコーチ)


 福田先輩が上記手記を寄せてくださったのは、1986年の始めだと思われる。
 亡くなってしまったのが、その3年経たないうちだった。
 とても驚き、改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。

福田昌久先輩の経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 出身地 福島県
 生年月日 1934年7月31日
 没年月日 1988年11月29日(満54歳没)
 身長:181cm
 体重:77kg

選手情報
 投球・打席 右投右打
 守備位置 投手、外野手
 プロ入り 1957年
 初出場 1957年
 最終出場 1964年
 経歴(括弧内は在籍年)
 福島県立磐城高等学校
 常磐炭坑
 専修大学

選手時代
 南海ホークス(1957 - 1962)
 読売ジャイアンツ(1963 - 1964)

コーチ時代
 読売ジャイアンツ(1965 - 1975)
 日本ハムファイターズ(1977 - 1978)
 ロッテオリオンズ(1979 - 1981)
 南海ホークス(1983)
 中日ドラゴンズ(1984)

磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て大学卒業後の1957年、南海に入団。1963年に巨人に移籍。

1964年に現役引退後は巨人(1965年 - 1975年)、日本ハム(1977年 - 1978年)、ロッテ(1979年 - 1981年)、南海(1983年)、中日(1984年)でコーチを務めた。また、1976年のみ文化放送で野球解説者を務めた。

1988年11月29日死去。享年55(満54歳没)。

通算成績
投手成績
 7試合 11.1回 0勝1敗 9奪三振 防御率3.00
打撃成績
 332試合 85安打 49打点 11本塁打 5盗塁 打率.217

コメント (1)

こんばんは。

この記事をウェブの中から見つけ、しみじみと拝見させていただきました。
在りし日の福田昌久コーチの饒舌な話し方を思い出しながらです・・・・

実は、私には高校野球の経験がありませんでしたので、偉そうな表現とお感じになりましたら、ご容赦くださいませ。

一昨年の5月の初めでしょうか・・・
私の長男であります、当時小学六年生であった息子が、学校に寄贈された2枚の千葉ロッテ・マリーンズの公式戦チケットを、じゃんけんによる争奪戦の末に我が家へ持ち帰ってきました。

実は・・・

私は中学生まで投手として野球をしていましたが、父親に対する反発から国学院久我山高校という名門に入学したにもかかわらず、野球部には入部せずに高校生活を終えました。

かなり、長い間を野球というものには触れずにいたのですが、チケットを持ち帰ってきた息子にせがまれてマリン・スタジアムへ観戦に行きました。
そこで見た光景は1980年川崎球場で見たロッテ戦の光景とはあきらかに違う景色だったのです・・・
2万1400人の観客!球場を揺らすほどの声援・・・
その興奮に思わず涙さえこぼれてきたほどでした。
球団創立40年という記念でそのシーズン中には懐かしい紺と赤線のオールド・ユニフォームを着て躍動する選手達の姿も見ることが出来ました。
「なんという偶然だろう・・・」そうです、そのユニフォームこそ1979年から1981年まで、父である福田昌久も袖を通してシーズンを戦っていたユニフォームだったのです。


貴殿のこの記事を読み、今
感慨にふけりながらコメントを書かせていただきました。

私たち子供達には遠い存在で、今あの頃の父の年齢になって理解できることも少なからずあるのです。

話が出来たらな・・・と思うことがあります・・・

その度に子供たちのためにも健康に気をつけなければならないなと思う毎日です。

貴殿もお体にはお気をつけになってご活躍いただきたいと思います。

投稿者:Hironori Fukuda |2009年11月18日 00:33

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