高校野球の思い出 磐城高校「涙の背番号4」

2020年5月24日

 以下は母校の福島県立磐城高校野球部100周年記念誌に寄せた自分の手記です。

 高校時代は、野球に始まり、野球に明け暮れ、そして喜び泣いたという、あまりに激しいものがありました。

 そうはいえ、自分の代は、3年夏に甲子園、2年夏には県で準優勝という戦績であり、自分も2年の時にもベンチに入れていただいたので、金メダル・銀メダルが両方あるという幸せな思い出でもあります。

 このブログを訪れた方にも、是非当時の状況をご覧いただきたく披露します。

誰が読んだか、磐城高校「涙の背番号4」

(以下が記念誌に寄せた手記原文)

 忘れもしない1985年の6月21日・・・

 夏の甲子園予選である県大会を1ヶ月前に控える時期に事故は起こった。

 スクイズの練習中だったが、目の前にボールが来た。

「いつも通り当てなくては!」
 と簡単にバットを出したが、なぜかファールチップをして右目を直撃した。

 目から火花が飛び出たような衝撃と、顔全体に血の匂いが覆ってきたような感じだった。

 そして次第に気が遠くなったのをなんとなく覚えている。

 至急病院に連れて行ってもらったが、診断結果は「硝子体眼底出血」、網膜剥離の可能性もあるとのことで急遽入院に至り、3週間絶対安静、全治3ヶ月という惨いものとなった。

 あの瞬間に自分の夏、いや、高校生活は終わったと思った。

 しかし自分がいなくては大変だ、と密かながらも強烈に思っていた自分は、絶対安静の中、静かに身体を動かしてみたが、目がぼやける。

 見つかって医師から、「将来を棒に振る気か!」と叱られた。

 しかしながら若かった自分は、「目なんか見えなくなくても関係あるか!」
 本気でそう思っていた。

 ところが見えなくなる恐怖と、医師と家族からの説得で断念を決意し、自分の高校野球生活にピリオドを打つつもりだった。

 身体中の力が失せて、将来の希望も消えてしまったようだった・・・。

 当時背番号「4」をいただいていた自分は、
「自分はプレーできないので背番号4をお返ししたい」と、
 絶対安静が解けた本番1週間前に田村監督のもとを訪れた。

 田村監督とは、ご存知、昭和46年夏の甲子園で磐城高校を準優勝に導き、小さな大投手と称えられた我が偉大なる先輩だ。

 その田村監督に、逆に一喝された。

「誰がなんと言おうとお前がレギュラー番号だ!」

「お前が誰よりも頑張ってきたことを、俺は認めている」

 非常に重い言葉だった。

 また当時入院中の自分に対して野球部の仲間は連日のように病院に顔を出してくれた。練習で疲れている中、本当に感謝している。

 そんな中、仲間は「菅野を甲子園に連れて行く」と合言葉のように言ってくれて、プレーは出来なかったが、あの仲間たちと出会えて本当に幸せだったと痛感している。

 結果は10年ぶりの甲子園、誰もが待ち望んでいた結果で締めくくってくれた。

 あれから20年強、誰もが感じるだろうが、磐高野球部は自分の原点であり、辛いときを確実に励ましてくれる宝の時期だ。

 高校卒業後の自分は、野球で果たせなかった夢を違うステージに求め、ダンスや仕事に打ち込んできた。

 都度、辛く苦しい時期が容赦なく襲ってくる。

 しかし、あの練習に耐えた自分にとって超えられない壁など無いと、今でも信じている次第だ。

 あの時期、沢山の人に救っていただいた。その恩返しを必ずしなくてはいけないと、常々考えている。

 叶うことなら、あの頃に戻って、あの素晴らしい仲間と共に、また白球を無心に追いかけたい・・・。

(磐城高校38回卒  菅野 哲正)
(誰が呼んだか「涙の背番号4」)

夏といえば甲子園、高校野球の聖地・甲子園、菅野哲正はそのために燃え尽きた